もう少し早く気付けば・・・
両親に対して自分の中にある血縁目線からは、物心がついた時点で何も期待せず、むしろ私の人生の足かせでしかない存在と、他人目線からは不器用なりに世間を健気に渡っている人たち。私1967年生、父34年生、母41年生、妹69年生の4人家族で既に祖父母は他界しており希薄な親戚関係の中で育ちました。
2012年それぞれ別の病気で通院した際、父統合失調症、母うつ病の診断が下されその時に今までの世間常識から外れた行動を理解しました。
周囲からはなぜこの事態に気付かなかったのかと聞かれますが、物心が付いた時には両親ともこの状態だったのでそれが当たり前の家庭で、何も疑問はありませんでした。親たちは病識もなくむしろ周囲がおかしいと主張し医療には繋がっていませんでした。
ヤングケアラー問題でも特に精神疾患の親を持つ子どもの発見が遅れる所以はここにあるかと思います。
最初の記憶は、泣いても授乳はしてくれない、泣くと疲れるだけなので何も行動をしないでした。動けるようになると排泄をしてもオムツ替えは期待できないので、気持ち悪さから早々にオムツを卒業しました。まだこの頃の母は最低限の世話をする気力はあったようで死なずにすみましたが、妹が生まれる頃は不調で既に子育ての手伝いをしていました。
その頃父は細々と自営業を営んでいましたが収入苦から母がパートに出ることになり、4歳前にして母の採用面接の付き添に行く羽目になりました。理由は父が子ども連れで面接に行けば哀れみを受けて採用される、素直に実行する母、今考えるとおかしい事ですが。
母の就労に伴い、妹と保育園に通園することになりますが、保育士から私の良い子すぎる行動が異常でおかしい問題があるから通院させてはのアドバイスを受けた父親からは(既に暴行は受けていた)、子どもらしくしないと親が怒られる恥をかかされる、お前を殴るのはお前が悪い事をしているからで、殴られたことを他人に言うことはお前が恥ずかしいことだから言ってはいけないと口止めをされ、それに母は同調していました。
小学生になると父親の状態が悪化し就労せず家に引きこもり暴行に刃物が加わりました。父にはいつ私を殺してくれるのかなの期待しか抱かなくなりました。高学年になると体力とそれなりに攻撃を交わす知恵も付いてくるので、公共の場所で過ごすことが多くなりました。
その父も私が高校生になると多少落ち着き社会復帰をし無事定年を迎えました。定年後は更に妄想が酷くなり、その頃母も妄想とゴミ出しにも行けない程の引きこもりで、精神疾患の知識がない私は加齢による認知症かなと思っていました。
それが精神疾患からと分かった瞬間、もう少し早く気付けは親たちは楽な人生が送れたのではと申し訳なさはありましたが、父が他界した際に何も父に対しての感情がないことに気付き、人間として自分は感情が欠けているのかなとモヤモヤした思いを抱くこの頃です。
ハート・ベース
精神疾患の親をもつ子どもの集い。荒波を旅する心が、ほっと一息つける居場所を同じ境遇の仲間たちと共有したいです。
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